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snow contemporary
布施琳太郎「イヴの肉屋」
会期:2022年3月4日(金)- 4月16日(土)13:00 - 19:00
*日・月・火・祝日は休廊
会場 : SNOW Contemporary / 東京都港区西麻布2-13-12 早野ビル404


SNOW Contemporaryでは2022年3月4日 ー 4月16日まで布施琳太郎の個展「イヴの肉屋」を開催いたします。


布施琳太郎は、急速に発展するメディア環境下に生きる人間の認知や慣習、それによる社会と人の距離やコミュニケーションのあり方など、可視化されないが実存する意識変容や違和感を、同世代のアーティストや詩人、音楽家、デザイナーなどと協働して巧みに顕在化させた作品を数多く発信し高い評価を受けているアーティストです。

布施は現代を読み解く上で、先史時代の洞窟壁画や日本語の成立過程など、過去の文化や事象を参照してきました。本展では1993年に発表された匿名のオンラインコミュニティにおける実際の性暴力について記したジュリアン・ディベルのエッセイ『サイバースペースにおけるレイ プ』を参照し、今日のソーシャルメディアにおいてすでに存在する、あるいはメタバースなどの概念を介して予見される身体性やコミュニケーションについて考察しています。布施は、このエッセイを参照とした理由を以下のようにまとめています。

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なによりも僕が興味を惹かれたのは、ゴシック小説のような幻想的な描写である。そこでは過剰なまでに物質的なディテールを伴った、しかし回想に基づく描写によって、暴力の過程を伝えることで、インターネットを空間として暗喩化することに成功している。そうした特異な語りのなかでリプレイされる暴力のプロセスは、インターネットが空間へと変質する理由̶̶ネットワークのなかで交通する言語の、空間への変質̶̶が暴力に由来して成り立つ可能性を露わにした。(布施琳太郎「制作メモ」より抜粋)
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コロナ禍において身体的・社会的に隔絶された空間や人間関係に伴い、インターネットの重要性が相対的に増している現代社会において、デジタルネイティブ世代と言われる 1994年生まれの布施が現代社会をどのように捉え作品化するのかをご期待ください。



制作メモ

 既存の文法ではなく、文法自体を作り上げるような制作のなかでしか思考できない領域がある。今回の制作は、僕にとっての制作のあり方を「描写」と「編集」に整理し直すことで、自分の文法を確認する試みでもある (描写は、絵画やテキストに関わり、編集は映像や展覧会、ときとしてテキストにも関わるものだ)。
 その前提に立ちながら、『イヴの肉屋』というタイトルは、『サイバースペースにおけるレイプ』というエッセイを出発点として発想された砂場(sandbox)である。それは複数の隔てられた空間を、身体なき名前たちが移動する景色。そしてそこに、どのような交流と交渉、暴力とその解決があるのかについて思考することを目的としている。感染症拡大下において変化し続ける状況と、30年前にインターネットのなかで発生した性暴力を、「イヴ」と「肉屋」という言葉を通じて比較するなかで、映像を作りたい。

 制作では以下の技術を交配する。これらは、単一の場に、複数の異なる時間や空間を共存させることができるという点から選ばれた。
1. ゲームエンジン
複数のフォーマットのデータ(jpegやpngなどの画像、mp3などの音声、objなどの3D CGモデル、C#などのプログラミング言語、mp4などの動画ファイル)を単一の時間・空間の座標に配置することができるアプリケーション。

2. スリットスキャン
映像データにおいて連続表示されるフレーム(=時間)を空間的に再配置する技術。

3. ソラリゼーション
画像の一部の明暗を反転させる技術。フィルム写真においては、露光中に光を過度に当てることで、潜像の一部が過剰に露光され、その部分の画像が反転して現われる。コンピュータにおいてはトーンカーブの操作で再現可能。


・『サイバースペースにおけるレイプ』
 この二年間で繰り返し読みながら、なかなか制作のモチーフにすることができなかったテキストがある。それはインターネット黎明期の匿名掲示板(正確にはMOO (Mud Object Orient ed)と呼ばれるテキストベースのオンライン仮想現実)における実際の性暴力について記したジュリアン・ディベルのエッセイ『サイバースペースにおけるレイプ』(1993)だ。アメリカの新聞であるヴィレッジ・ボイスに寄稿された本稿は、LambdaMOOというオンラインコミュニ ティの住民たちが、性暴力を目の当たりにしたあとで、自分たちのバーチャルな社会にとって暴力とはなにか? そして暴力は排除されるべきなのか? などについて行った民主的な議論 を記録した点でも重要だ。
 だがなによりも僕が興味を惹かれたのは、ゴシック小説のような幻想的な描写である。そこでは過剰なまでに物質的なディテールを伴った、しかし回想に基づく描写によって、暴力の過 程を伝えることで、インターネットを空間として暗喩化することに成功している(「ディオダ ティ荘の怪奇談義」を端とした『フランケンシュタイン』や『吸血鬼』における文学的達成を 僕は思い出した)。そうした特異な語りのなかでリプレイされる暴力のプロセスは、インターネットが空間へと変質する理由̶̶ネットワークのなかで交通する言語の、空間への変質̶̶ が暴力に由来して成り立つ可能性を露わにした。
 『サイバースペースにおけるレイプ』は、90年代初頭の時点でなされた描写であるにもかかわらず、さまざまな禁止によって空間が隔てられたコロナ禍の社会においても示唆に富んでいる。「濃厚接触」や「密(接/閉)」などの性的な含意を想起してしまうような、しかし衛生的生活の要請。その禁止の侵犯が何を意味するのかが僕は気になっている。Aから/によるBへの侵入、嵌入、挿入、踏込、書込。


・「イヴ」について
1. 青や影、落下を用いて制作を行った美術家のイヴ・クライン(Yvesklein)
2. アダムの肋骨から造られたイヴ(Eve/Evangelion)
3. トーマス・エジソンを主人公としてアンドロイドという言葉を最初に用いた作品と言わ
  れる小説『未来のイヴ』、あるいはミトコンドリア遺伝子の寄生と反乱を描いたパンデ
  ミックSFホラー『パラサイト・イヴ』、怪しい美術館に迷い込んだ少女イヴの物語を描
  くフリーゲーム『ib』
4. 鎮痛剤の商品名(EVE)


・肉屋」について
『荘子』の「内篇第三 養生主篇」のなかには、庖丁という料理人ついて記した一節がある。 包丁さばきの達人である庖丁は、恵王の前で牛一頭を鮮やかに解体してみせた。
昔、この仕事についた当初は、目に映るものは牛の外形でした。三年ほどたつうちに牛
牛の外形は消えうせ、骨や筋が見えるようになりました。今ではもう肉眼に頼ることは
いたしません。牛に向かうと心がはたらきます。[中略]骨節には隙間があり、刀の刃に
は厚さがない、厚さのないものを隙間に入れるのですから悠々たるもの、ゆとり[原文:
余地]は十分あります。ですから、いくら使っても刃こぼれひとつないのです。
  (『荘子』2008年、徳間文庫、p132 )
 思想家のジャン・ボードリヤールは、人類史における広範な経済への分析に基づく主著『象徴交換と死』において、この逸話を引用した「荘子の肉屋」という短い文章を残している。ここで彼は、庖丁による解体を、アナグラムにおける言語の運動へと紐づけた。アナグラムとは、ひとつの意味をもった単語を部分へと解体しながら、そこに隠されていた別の意味を露わにする遊戯である。例えば「アナグラム」のなかには「グアム」「奈良」が隠れているし、「listen」を並び替えると「silent」になる。
 こうした言語の運動、つまりアナグラムを牛の身体に対して適応することで、庖丁は「名付 けられた解剖学的な部分へと一頭の牛を解体したのだ」と説明することができるのだ。そして名前を持たない部分こそが、『荘子』における「ゆとり(=余地)」であり、それこそが職人にのみアクセス可能な空間なのである。
  恐れながら、ご覧いただきましたのは技ではございません。技
をきわめたはてにあるものと申せましょうか、道でございます。
  (同上)

・身体なき名前
 匿名掲示板とは、名前を持たないものたちの共同体ではない。そこで匿されるのは、私たちの戸籍上の、つまり国家をはじめとした既存のシステムに紐づけられた名前である。そのうえで、私たちは固有名を持つことも、持たないこともできる。
 そして『サイバースペースにおけるレイプ』で描かれた匿名掲示板は、そういった意味で、「匿名」のものたちの物語の舞台なのだ。このエッセイで報告されているように、ある寝室の ディスプレイとキーボードの前に座るひとつの身体が複数の名前を持つことも可能である(性 暴力の加害者であるMr.Bungleは罰として蛙に化かされた後で、Dr. Jestという名前で復活する)。また掲示板において、個別の名前は、ひとつの人物として扱われる(リビングルームを 運営するEvangelion、被害者のStarsinger、そしてAutumn、JoeFeedback、L-dopa、Silver Rocketなどの住民たち)。実際の身体の個数に限らず、それぞれの名前が個別の同一性を持つのだ。
 匿名性において現れるのは「身体なき名前」の固有性である。そしてそれこそがインターネットという複数階層の言語(自然言語、プログラミング言語、それらのバイナリ化、機械語) によって駆動する環境におけるファントムリム(幻肢)なのだ。その腕は、この足は、私のものであると同時に、名前を知らない誰かのものである。このファントムリムを、さらに言語によって描写し、詩的な転移に晒すことでバーチャルな(事実上の)身体を作り出したとき、そこで現象していたものこそがサイバースペースである。『サイバースペースにおけるレイプ』 というエッセイは、そうしたファントムリムの作り替えを、特異な描写の形式によって実践した。
 またこのエッセイが伝える性暴力は、ネットワークのなかに仮構された「身体なき名前」を、そのファントムリムを、一時的にであれひとつの身体へと変質させるのである。それは暴力であるのだが、暴力に曝されるという仕方で、ある名前が、対象としての身体へと変質するのだ。私の右手が、私のものでなくなって、私以外の誰かによって動かされるような......その瞬間にだけ、サイバースペースは姿を現すのだろう。


・制作へ
 ここから先は、制作を通じて/事後においてのみ記述できるようになる(なりたい)。それはつまり、この事件やここから考えられる様々な問題を、現在の社会と紐づけたり、人類の歴史のなかに置き直してみたりすることだ。
  (2022/02/17 布施琳太郎)

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