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竹内公太「Body is not Antibody」

snow contemporary
「Body isnot Antibody」《Evidens》(2020, 写真)より「Aa」部分および《Evidens.otf》(2020, オープンタイプフォント) を使用
竹内公太「Body is not Antibody」
会期:2020年7月18日(土)-8月15日(土)13:00 - 19:00 *会期延長
*日・月・火・祝日は休廊
会場 : SNOW Contemporary / 東京都港区西麻布2-13-12 早野ビル404

SNOW Contemporaryでは7月18日(土) から 8月15日(土)まで、竹内公太の個展「Body is not Antibody」を開催いたします。

1982年生まれの竹内は、2008年東京藝術大学美術学部先端芸術表現科を卒業し、現在は福島県を拠点に活動しています。
竹内はこれまでに、ふくいちライブカメラのモニターに突如現れた指差し作業員の代理人として、災害を見る側の意識と匿名表現者の自意識を浮き彫りにした個展「公然の秘密」(2012) や、手(=携帯機器)で情報を取得する現代人の風景をとらえた「手の目」(2014)、福島県いわき市内の石碑巡りをトレースすることでメディアの性質と人の記憶の有り様を示した個展「写真は石碑を石にする、それでも人は」(2017)、第二次世界大戦時の1944年から翌年にかけて日本軍によって投下された風船爆弾の歴史を題材とした映像作品「盲目の爆弾、コウモリの方法」(2019)などを通じ、自らの身体性をもって事物をトレースし、絵画や映像、写真、彫刻など、多様なメディアを用いたインスタレーション展示を展開してきました。緻密なリサーチとフィールドワークをベースに構築したコンセプトを作品化し、それらを通じて現代社会における情報の在り方や意識をはじめとした多様な問題を批評的に提示してきました。

本展「Body is not Antibody」では、竹内公太が2019-20年に福島県の立入制限区域で警備員をしていた時期に、現地で撮影した光跡写真を元に制作したオリジナルフォントと関連作品を発表します。
竹内は、誘導灯を振る日々の労働者の動きに倣い、灯りの軌跡を光跡写真として記録してオリジナルフォントとして転用することを試みました。タイトルである「Body is not Antibody」は、「身体(body)は抗体(Antibody)ではない」といった意味を持ちます。福島県の立入制限区域で警備員として、自らの身体を国家のおこなう復興事業に提供した体験から生まれた本作品は、個人にとっての身体の意味や所在について問いかけます。
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に際し、社会の相互監視と行政が個人の生活様式へ干渉する今日、個々の身体と国家や社会との関係性を再考する機会となれば幸いです。

■作者より
2019年夏から2020年春にかけて、福島県の帰還困難区域で警備員をしていました。夏はセミの声を聴き、冬は星を見ていた。夜明け前から夜中まで、住む人のいない町の道路で、毎日誘導棒を振っていました。交通誘導の警備員が手に持っている、赤く光るあの棒です。

《エビデンス》という写真作品はその誘導棒を使って撮影しました。光跡写真といって、シャッタースピードを長くしてライトを動かすと、その軌跡が写真になる。誘導棒で空中に文字を描いて、その光跡写真を撮りました。後でこれらの文字写真を編集し、フォント(パソコンで文章を書くときなどに選べる文字の形のデータ)を作りました。



これまでに、帰還困難区域を含む被災地での、スマホや放射線測定器を持ち歩く人の姿、あるいは石碑や地面から歴史を調べる人の所作を見ていて、手を使ってものを見る、ものを見せるということに興味が湧き、これまでの作品に反映させてきました。暗がりを照らす知恵は、天啓に導かれるのではなく、地面をうごめく人々の手から生まれるという考え方がベースにあります。今回は僕自身がずいぶんと手を動かしました。
エビデンス(evidence)という言葉は今は証拠という意味でよく使われますが、もとは明瞭、視える、といった意味のラテン語の言葉(evidens)からきているそうです。2011年の原発事故もそうですが、様々な事件や議論について、暗闇の中でそれを希求する人々の言葉の響き合いを思いながら、また、フォトグラフ(光-画)の意味合いを考えながら、この語をフォントの名前にしました。

《文書1 王冠と身体》は、このフォントを使って作った文書であり、図像です。トマス=ホッブズの『リヴァイアサン』という本の扉絵で有名な絵(1651年アブラハム・ボス作)から、王冠と身体の部分だけを抜き出したものです。元の絵は、海から出て山より高く描かれた王様の絵です。王の体が人民たちの体によって形作られている。手前の町には軍事訓練をする者たち、またペスト医師ではないかという説のある二人の人間以外は誰もいない、といった絵です。



恐怖や危機に瀕するとき、人々は進んで国という身体のための「抗体」になる。「抗体」とは、身体にとっての異物に反応する役割を担う物質です。異物を攻撃し排除する免疫システムの一翼を担います。戦争はもとより、震災でも、コロナ禍でも、長期的な災禍にあって人が人に対して抗体反応のような振る舞いをする話が聞かれ、たびたび思い起こした絵でした。さらに、王様の被り物がウイルス名の由来と同じということにも気づいて、制作してみたいと思うようになりました。(電子顕微鏡で見たコロナウイルスは、表面に約20nmの特徴的な突起があり、その見た目が王冠(crown)によく似ていることから、ギリシャ語で王冠を意味する「corona(コロナ)」という名前が付けられたそうです)

弱い立場の人の健康や暮らしを守る。身体とは個人のもので、国はそのためのシステムですが、いつの間にかそのイメージが逆転してしまうことがある。本展覧会は、身体のイメージの帰属先を描くというテーマがあります。タイトルは「Body is not Antibody」、「身体は抗体ではない」。わたしの身体は国という怪物の抗体ではない。
と否定したものの、ではどんなイメージならば、わたし個人の身体であると言えるのだろう。



極端かもしれないけど、《エイリアン》はどうだろう。SF映画の影響で、宇宙人を連想しがちですが、もともとは部外者や外国人を意味する言葉だそうです。在留外国人の抱える困難や、福島での出稼ぎ労働者に向けられる訝しい視線を思えば、個人的であっても決して楽な立場ではなく、またそれは「抗体」に識別される側なのかもしれません。あるいは、経済や哲学の分野では、本来は自分のものである財産や権利を譲渡することで、人間があるべき本質を失うことを疎外、alienationといいます。これもまたシステムによる支配の一端です。
疎外されたわたし、を無理やり人体に喩えると…ミトコンドリア、本来は異物だったけれど生産したエネルギーを譲渡することで生きものの細胞と共生し、いつの間にか私たちの体の一部になてしまったという、ミトコンドリアが似ているのかもしれない。
結局のところ厳しいのですが、「抗体」になるかミトコンドリアになるかと迫られたら、僕はミトコンドリアのようなエイリアン(疎外者)が良い…個人としての矜持を持ちたい…。などと考えるけれど、復興という国家事業の末端で警備員という監視の目を光らせる、いかにも「抗体」のような仕事に就きながら、よくもそんなことが言えた、というところなのですが。

ちょっと話が逸れた気もしますが、来場いただいた皆様におかれましては、エイリアン席に座ってみるもよし、コロナ・リヴァイアサンの身体を通って東京の町へ還るもよし、隔離されて10年目になる町で撮られた写真の前から両者を眺めてみるもよし、ぐるぐる動いて居心地の良い場所を見つけてもらえたらと思います。


2020年7月18日 竹内公太
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