雨宮庸介「幽霊の原稿」
会期:2019年9月14日(土) - 11月2日(土) 13:00 - 19:00
*日・月・火・祝日は休廊
オープニングレセプション:9月14日(土) 18:00 - 20:00
会場:SNOW Contemporary
この度、SNOW Contemporaryでは、2019年9月14日より、雨宮庸介の個展「幽霊の原稿」を開催いたします。
1975年茨城県水戸市生まれの雨宮は、1999年多摩美術大学美術学部油画専攻卒業後、2011年に渡欧し、2013年にサンドベルグインスティテュート(アムステルダム)修士課程修了。現在はベルリンを拠点に活動しています。主な展覧会に「六本木クロッシング2010展;芸術は可能か?」(2010/森美術館)、「国東半島芸術祭-希望の原理」(2014/国東半島、大分)、「未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展」(2018/国立新美術館)などがあり、彫刻や映像インスタレーション、パフォーマンスなど、さまざまな手法を用いて日常では意識されない普遍的な事象における境界線の再考を促すような作品を制作してきた美術家です。
2019年6月、個展の準備を進めている中、雨宮の両親がほぼ同時に健康を損ね倒れてしまいます。雨宮は、「作品を制作発表することと無関係としなければならないはずのこれら個人的な出来事に対して」「どう距離をとっていいのかわからなくなった」と言います。本人にとっては「重大な出来事」ではありますが、年を重ねる両親の問題は、誰にでもいつかは起こるであろう普遍的な出来事とも言えます。
当初雨宮は、作品を制作することと家族に今起きている個人的な出来事は無関係としなければならない事と捉えていましたが、やがて家族を考えることは、自身の作品のテーマでもある「境界」や「普遍性」を考えることにつながると感じました。
この度の展覧会では、「幽霊の原稿」と題し、自身の家族の事や、パフォーマンスやプロジェクトなどに関するさまざまな「原稿」としてのドローイングや油彩を6点ほど展示する予定です。
極めて個人的な単位でありながら社会の最少単位でもある「家族」をどう芸術表現へと昇華させるのか、雨宮の新たなテーマへの挑戦にご期待下さい。
■雨宮庸介 「幽霊の原稿」 - アーティストステートメント
「イデオロギーのかわりにコンピューターが与えられた時代において、僕たちはどう世界と関係をもつべきか。」という問いに対して、家族というコミュニティには国家や階級が失った「合理的な判断を超えた強制力」があり、それゆえに「裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだとも言える。」(「」内はすべて 東浩紀 (2017)『ゲンロン0 :観光客の哲学』 第5章 家族 より )
パフォーマンスの原稿にあたるようなドローイングで展覧会をつくってみようと進めるなか、つい先月、家族のうちの2人が別々の病気で命の危険にさらされる事になり、 大きなショックを受けました。(これを書いている現在、事態はずいぶん落ち着いている)
何か作品で触れてみようかとも考えたのですが、作品に持ち込むには個人的すぎるし、心情的にも物理的にもあまりに大きな出来事である一方、俯瞰してみれば、多くの人に順々に起こるであろう、人類においてはとりたてて珍しくない事態でもあるという、なんとも扱いにくい状況に身を置くことになったのです。
しかし、しばらくして、ふと、「家族」を考える事は、いつも自分が作品でしている実践「境界を行き来すること」 や「ないはずのことに質量を与えてしまう」などの試みに密接な関係があるのではないかと感じ、まずはおそるおそる並列に扱ってみる事にしました。
たしかに家族という単位は、インターネットが隅々まで普及した現代において、生身の身体という物質と思考が交錯する奇妙な舞台です。そして、そもそも人は「自分」という役まわりをまっとうするために日々を人生と銘打って演じているわけです。そう考えると、社会に向けたパフォーマンスやプロジェクのために描いていた「原稿」たちもまた、時として家族を物語ることと相似形をとるように思えたのです。
「パフォーマンスやプロジェクトについての原稿」はもちろん「家族の原稿」もまた、「どこで“わたし”がおわり、“わたしたち”がどこではじまり、どこで終わるのか」という僕が常々取り組んできた問いに繋がるのだと予感しました。
「美術」またはそれとはおおよそ相容れにくい「家族」という存在も、実はどちらも表面は「半透明の見えにくい皮膜」で覆われており、その皮膜を透かしてみると、プリズムによって可視化された七色の光線のごとく、放射状に哲学や社会学、生物学や量子物理学さえも放出されるのではないかと思えたのです。
2019年7月末
雨宮庸介
会期:2019年9月14日(土) - 11月2日(土) 13:00 - 19:00
*日・月・火・祝日は休廊
オープニングレセプション:9月14日(土) 18:00 - 20:00
会場:SNOW Contemporary
この度、SNOW Contemporaryでは、2019年9月14日より、雨宮庸介の個展「幽霊の原稿」を開催いたします。
1975年茨城県水戸市生まれの雨宮は、1999年多摩美術大学美術学部油画専攻卒業後、2011年に渡欧し、2013年にサンドベルグインスティテュート(アムステルダム)修士課程修了。現在はベルリンを拠点に活動しています。主な展覧会に「六本木クロッシング2010展;芸術は可能か?」(2010/森美術館)、「国東半島芸術祭-希望の原理」(2014/国東半島、大分)、「未来を担う美術家たち 20th DOMANI・明日展」(2018/国立新美術館)などがあり、彫刻や映像インスタレーション、パフォーマンスなど、さまざまな手法を用いて日常では意識されない普遍的な事象における境界線の再考を促すような作品を制作してきた美術家です。
2019年6月、個展の準備を進めている中、雨宮の両親がほぼ同時に健康を損ね倒れてしまいます。雨宮は、「作品を制作発表することと無関係としなければならないはずのこれら個人的な出来事に対して」「どう距離をとっていいのかわからなくなった」と言います。本人にとっては「重大な出来事」ではありますが、年を重ねる両親の問題は、誰にでもいつかは起こるであろう普遍的な出来事とも言えます。
当初雨宮は、作品を制作することと家族に今起きている個人的な出来事は無関係としなければならない事と捉えていましたが、やがて家族を考えることは、自身の作品のテーマでもある「境界」や「普遍性」を考えることにつながると感じました。
この度の展覧会では、「幽霊の原稿」と題し、自身の家族の事や、パフォーマンスやプロジェクトなどに関するさまざまな「原稿」としてのドローイングや油彩を6点ほど展示する予定です。
極めて個人的な単位でありながら社会の最少単位でもある「家族」をどう芸術表現へと昇華させるのか、雨宮の新たなテーマへの挑戦にご期待下さい。
■雨宮庸介 「幽霊の原稿」 - アーティストステートメント
「イデオロギーのかわりにコンピューターが与えられた時代において、僕たちはどう世界と関係をもつべきか。」という問いに対して、家族というコミュニティには国家や階級が失った「合理的な判断を超えた強制力」があり、それゆえに「裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだとも言える。」(「」内はすべて 東浩紀 (2017)『ゲンロン0 :観光客の哲学』 第5章 家族 より )
パフォーマンスの原稿にあたるようなドローイングで展覧会をつくってみようと進めるなか、つい先月、家族のうちの2人が別々の病気で命の危険にさらされる事になり、 大きなショックを受けました。(これを書いている現在、事態はずいぶん落ち着いている)
何か作品で触れてみようかとも考えたのですが、作品に持ち込むには個人的すぎるし、心情的にも物理的にもあまりに大きな出来事である一方、俯瞰してみれば、多くの人に順々に起こるであろう、人類においてはとりたてて珍しくない事態でもあるという、なんとも扱いにくい状況に身を置くことになったのです。
しかし、しばらくして、ふと、「家族」を考える事は、いつも自分が作品でしている実践「境界を行き来すること」 や「ないはずのことに質量を与えてしまう」などの試みに密接な関係があるのではないかと感じ、まずはおそるおそる並列に扱ってみる事にしました。
たしかに家族という単位は、インターネットが隅々まで普及した現代において、生身の身体という物質と思考が交錯する奇妙な舞台です。そして、そもそも人は「自分」という役まわりをまっとうするために日々を人生と銘打って演じているわけです。そう考えると、社会に向けたパフォーマンスやプロジェクのために描いていた「原稿」たちもまた、時として家族を物語ることと相似形をとるように思えたのです。
「パフォーマンスやプロジェクトについての原稿」はもちろん「家族の原稿」もまた、「どこで“わたし”がおわり、“わたしたち”がどこではじまり、どこで終わるのか」という僕が常々取り組んできた問いに繋がるのだと予感しました。
「美術」またはそれとはおおよそ相容れにくい「家族」という存在も、実はどちらも表面は「半透明の見えにくい皮膜」で覆われており、その皮膜を透かしてみると、プリズムによって可視化された七色の光線のごとく、放射状に哲学や社会学、生物学や量子物理学さえも放出されるのではないかと思えたのです。
2019年7月末
雨宮庸介
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