河口龍夫「1963年の銅版画より」
会期:2018年12月14日(金) - 2019年1月26日(土) 13:00 - 19:00
*日・月・火・祝日は休廊(12月23日-1月8日は冬季休廊)
オープニングレセプション:12月14日(金)18:00 - 20:00
会場:SNOW Contemporary
SNOW Contemporaryでは2018年12月14日(金)から1月26日(土)まで、河口龍夫の個展「1963年の銅版画より」を開催いたします。
本展では、近年になって見つかった、今から半世紀以上前の1963年、当時23歳の河口龍夫が制作した銅版画10点を発表する予定です。1963年は、河口の最初期の活動として知られる「グループ〈位〉」結成の2年前にあたります。「グループ〈位〉」 では 岐阜・長良川の河原で延々と穴を掘って埋めるパフォーマンスを発表するなど、当時の活動は、現在の幅広い河口の芸術活動を展開する契機となった時期でもありました。
銅版画作品それぞれに付けられた「消去された時間」「人」「萌芽」「仮面」「発生」「相関」「命の時間」「曖昧なこと」「闇に潜む浮遊物」「闇からの誕生」という端的なタイトルからだけでも、すでに現在の河口作品に通底する「時間」「生命」「宇宙」といった要素が伺え、作家としてスタートした頃から変わらない強固な制作への意志を受け取れます。
制作から55年の時を経て本作を見つけた時、河口は以下のように自問しています。
「これらの作品を制作したのは何故だろうか。自問自答の機会が訪れたのかもしれない。しかし、1963年の作品を制作当時の23歳の言葉で語ることは失われた覚書を探すようであり、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感がある。何故なら、最初の文の繰り返しになるが、『時間の非可逆性は過去の現実への非可逆性と重複するかのようである。』からである。」(「1963年の銅版画をめぐって」より)
河口龍夫の芸術家としての最初期に制作された10点の銅版画をご覧いただける貴重な機会となりますので、皆さまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
■河口龍夫 / アーティストステートメント 『1963年の四点の銅版画をめぐって』より抜粋
1. 消去された時間
時間への何らかの関心が感じられる過去の作品で、私の手元にあるものを探してみた。すると1963年に制作した銅版画の作品で、題名が《消去された時間》となっており、その題名からも時間への関心が明らかであった。
そこに描かれているのは、時間そのものは描くことができないので、時計を借りた時間のイメージであった。当然のことながら、時間そのものを対象化することは、時間内存在である我々には不可能であることを自覚していたようである。その時点では時間への表現力が稚拙にも思えるが、私にとっては時間への関心とささやかな冒険を示す、そして懐かしさを誘う作品でもあった。
懐かしさを誘うのは、描かれている時計が、誕生した時から我が家にあった古い柱時計からのイメージであったからだ。記憶に残るその時計は振り子時計で毎日軽快な音を立てながら時を刻んでいた。またその時計はゼンマイ仕掛けによる機械時計で、大きな真鍮の鍵状の道具を丸い小さな穴に差し込み手動でねじを巻かなければならなかった。その柱時計にねじを巻く役が父から私の役になった時から、ねじを巻くたびに時計に命を与えるような気分になっていた。ねじを巻く音と時刻を知らせる音が思い出される。時刻を知らせる音は、一時にはボーンと一つなり、十二時にはボーン、ボーンと連続して十二回なった。
音を失った《消去された時間》から読み取れるのは、画面に向かって右側に時刻を知らせる文字盤部分が描かれ、左側には時計を起動させる振り子部分が描かれている。だが記憶に残る時計は、時刻を表記する文字盤と時計の短針と長針を起動させる振り子が完全につながって一体化し、柱を背にして時を刻んでいた。なぜ振り子時計を切断し左右に隔てたのであろうか。それは文字盤の画面に時計を巻く鍵が描かれていることから推測すると、時計のねじを巻き忘れ、時計が静止してしまったことの記憶からであろうか。あるいは、切れ目なく連続する時間に、現実時間とは無関係な隙間のような時間空間を想像し、そのために時間の切断を試み、切断された時間の存在を消去された時間と夢想したのだろうか。もしくは、同じ長さの時間が長く感じたり短く感じたりすることが、私的な観念によってとらえる時間と即物的な時間との乖離を時間の切断と捉えようとしたのだろうか。いずれにしても時間の非可逆性は過去の現実への非可逆性と重複するかのようである。
ここに書かれている作品《消去された時間》を探し出した時、同時に三点の別の作品を見つけ出した。いずれの作品も1963年制作の銅版画で、私が23歳の時の作品である。作品の題名はすでに記述した《消去された時間》の他、《人》、《萌芽》、《仮面》と画面下に書かれていた。作品と再会した一瞬、題名も含めてまるで水族館の水槽越しに不動の魚を見るような、または、自分が昔採集した珍しい昆虫を標本箱越しに見るような、あるいは、時間の残滓で少し霞んだ曇りガラスを通して見るような感じを覚えたのは、55年前という経過した時間のせいであったからであろうか。
(注)この文を書いた二ヶ月後、新たに55年前の銅版画6点が見つかりました。
会期:2018年12月14日(金) - 2019年1月26日(土) 13:00 - 19:00
*日・月・火・祝日は休廊(12月23日-1月8日は冬季休廊)
オープニングレセプション:12月14日(金)18:00 - 20:00
会場:SNOW Contemporary
SNOW Contemporaryでは2018年12月14日(金)から1月26日(土)まで、河口龍夫の個展「1963年の銅版画より」を開催いたします。
本展では、近年になって見つかった、今から半世紀以上前の1963年、当時23歳の河口龍夫が制作した銅版画10点を発表する予定です。1963年は、河口の最初期の活動として知られる「グループ〈位〉」結成の2年前にあたります。「グループ〈位〉」 では 岐阜・長良川の河原で延々と穴を掘って埋めるパフォーマンスを発表するなど、当時の活動は、現在の幅広い河口の芸術活動を展開する契機となった時期でもありました。
銅版画作品それぞれに付けられた「消去された時間」「人」「萌芽」「仮面」「発生」「相関」「命の時間」「曖昧なこと」「闇に潜む浮遊物」「闇からの誕生」という端的なタイトルからだけでも、すでに現在の河口作品に通底する「時間」「生命」「宇宙」といった要素が伺え、作家としてスタートした頃から変わらない強固な制作への意志を受け取れます。
制作から55年の時を経て本作を見つけた時、河口は以下のように自問しています。
「これらの作品を制作したのは何故だろうか。自問自答の機会が訪れたのかもしれない。しかし、1963年の作品を制作当時の23歳の言葉で語ることは失われた覚書を探すようであり、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感がある。何故なら、最初の文の繰り返しになるが、『時間の非可逆性は過去の現実への非可逆性と重複するかのようである。』からである。」(「1963年の銅版画をめぐって」より)
河口龍夫の芸術家としての最初期に制作された10点の銅版画をご覧いただける貴重な機会となりますので、皆さまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
■河口龍夫 / アーティストステートメント 『1963年の四点の銅版画をめぐって』より抜粋
1. 消去された時間
時間への何らかの関心が感じられる過去の作品で、私の手元にあるものを探してみた。すると1963年に制作した銅版画の作品で、題名が《消去された時間》となっており、その題名からも時間への関心が明らかであった。
そこに描かれているのは、時間そのものは描くことができないので、時計を借りた時間のイメージであった。当然のことながら、時間そのものを対象化することは、時間内存在である我々には不可能であることを自覚していたようである。その時点では時間への表現力が稚拙にも思えるが、私にとっては時間への関心とささやかな冒険を示す、そして懐かしさを誘う作品でもあった。
懐かしさを誘うのは、描かれている時計が、誕生した時から我が家にあった古い柱時計からのイメージであったからだ。記憶に残るその時計は振り子時計で毎日軽快な音を立てながら時を刻んでいた。またその時計はゼンマイ仕掛けによる機械時計で、大きな真鍮の鍵状の道具を丸い小さな穴に差し込み手動でねじを巻かなければならなかった。その柱時計にねじを巻く役が父から私の役になった時から、ねじを巻くたびに時計に命を与えるような気分になっていた。ねじを巻く音と時刻を知らせる音が思い出される。時刻を知らせる音は、一時にはボーンと一つなり、十二時にはボーン、ボーンと連続して十二回なった。
音を失った《消去された時間》から読み取れるのは、画面に向かって右側に時刻を知らせる文字盤部分が描かれ、左側には時計を起動させる振り子部分が描かれている。だが記憶に残る時計は、時刻を表記する文字盤と時計の短針と長針を起動させる振り子が完全につながって一体化し、柱を背にして時を刻んでいた。なぜ振り子時計を切断し左右に隔てたのであろうか。それは文字盤の画面に時計を巻く鍵が描かれていることから推測すると、時計のねじを巻き忘れ、時計が静止してしまったことの記憶からであろうか。あるいは、切れ目なく連続する時間に、現実時間とは無関係な隙間のような時間空間を想像し、そのために時間の切断を試み、切断された時間の存在を消去された時間と夢想したのだろうか。もしくは、同じ長さの時間が長く感じたり短く感じたりすることが、私的な観念によってとらえる時間と即物的な時間との乖離を時間の切断と捉えようとしたのだろうか。いずれにしても時間の非可逆性は過去の現実への非可逆性と重複するかのようである。
ここに書かれている作品《消去された時間》を探し出した時、同時に三点の別の作品を見つけ出した。いずれの作品も1963年制作の銅版画で、私が23歳の時の作品である。作品の題名はすでに記述した《消去された時間》の他、《人》、《萌芽》、《仮面》と画面下に書かれていた。作品と再会した一瞬、題名も含めてまるで水族館の水槽越しに不動の魚を見るような、または、自分が昔採集した珍しい昆虫を標本箱越しに見るような、あるいは、時間の残滓で少し霞んだ曇りガラスを通して見るような感じを覚えたのは、55年前という経過した時間のせいであったからであろうか。
(注)この文を書いた二ヶ月後、新たに55年前の銅版画6点が見つかりました。
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