伊東篤宏「V.R. Specter 視る音、聴く光」
会期:2012 年 12 月 1 日(土) - 16 日(日) 12:00 - 20:00 *月曜休廊
オープニングレセプション:12 月 1 日(土) 18:00-20:00
会場:XYZ collective (SNOW Contemporary) /東京都世田谷区弦巻 2-30-20 1F
主催:SNOW Contemporary
企画協力:宮津大輔
SNOW Contemporary では 2012 年 12 月 1 日(土)から 16 日(日)まで、美術家・オプトロンプレーヤー である伊東篤宏の個展「V.R. Specter」を開催いたします。
1965年生まれの伊東篤宏は、1992年に多摩美術大学大学院美術研究科を修了し、1990年代より蛍光灯を素材としたインスタレーションをはじめました。主な展覧会に「六本木クロッシング / New Visions Contemporary Japanese Art 2004」(2004/森美術館)、個展「V.R.」(2009/原美術館)、個展「Paint & Collage Works 2010」(2010/NADiff a/p/a/r/t)などがあります。また、98年からはインスタレーション作品と同素材である蛍光灯を使用した 自作”音具”「オプトロン」によるサウンド・パフォーマンスを開始します。様々なジャンルのパフォーマーたちと共演・コラボレーションをおこなうと同時に、「シンガ ポール アーツ フェスティバル 2010」(2010/Supperclub シンガポール)や「NJP SUMMER FESTIVAL 21ROOMS」(2011/Nam June Paik Art Center 韓国)など、世界各国から数多くの招聘を受けています。
伊東篤宏の表現活動において、欠かす事のできないマテリアルとして「蛍光灯」があります。伊東は1990年代より、蛍光灯それ自体を中心にすえ作品を制作してきました。初期は、ライトボックス型パネルなどを使った平面作品でしたが、徐々に外枠や構造体を省くことでミニマル化し、98年には蛍光灯そのものを素材とした音具「オプトロン」を制作するに至ります。「オプトロン」を使ったパフォーマンに取り組むようになったのも、この頃です。蛍光灯が発光するときに放電されるノイズを増幅/コントロールすることで放出される音と光の激しい明滅で構成されるパフォーマンスは、観る者の視覚と聴覚を強烈に刺激します。視覚に訴える初期のインスタレーション作品から、「オプトロン」が制作されたことにより、視覚行為に加え聴覚という新たな感覚を喚起させることとなったのです。蛍光灯というきわめて日常的なモノが、通電することで発光し電磁ノイズを放出する、場合によっては凶器にもなりうる「オプトロン」という音具へと転換されることへの違和感とダイナミズム、そして我々の内にある未知の感覚が広がることで得られる開放感と刺激は、伊東作品だけがもつ特質です。
この度の個展では、光と音で構成された大型インスタレーションと数点の立体作品をメインに展示します。伊東は本展のタイトルを「V.R. Specter」(可視の亡霊)、サブタイトルを「視る音、聴く光」とし、音に対する視覚的そして光に対する聴覚的なアプローチを同時に展開する予定です。我々は普段、主に視聴覚に頼ることでリアリティを把握しています。近代以降は、写真やラジオ、電話、テレビ、インターネットなど、様々なメディアの登場により、視聴覚への依存度はより強くなってきているのではないでしょうか。本展タイトルである「V.R. Specter」(可視の亡霊)は、「可視」と、本来は不可視な存在である「亡霊」の組み合わせが矛盾しているように受け取れます。しかしながら伊東は本展を通じ、「視えないはずの、聴こえないはずのモノやコトを見聞きする」という、現代では理解が難しくなりつつある感覚を皆様にお見せいたします。 伊東篤宏の作品は、日常生活で鈍化した視聴覚を刺激することで、逆にその存在を我々に意識させます。この体験が、ご自身の日常を考えるきっかけの一つとなれば幸いです。皆様には是非実際に本展覧会を体感していただきたく、ここにご案内申し上げます。
「V.R.SPECTER」展に向けて」 - アーティスト・ステートメント
私は以前より「視覚、聴覚の変容」、「視る、聴く快感」を基本原則とした、視覚芸術からの「音」、あるいは「音楽」へのアプローチを行って来た。
それらは、意図的に造られた(造形された)作品(そこには蛍光灯音具「OPTRON」を含む)から生まれる「音」を含んだ展示であり、特定の意味や思想に拠らない個人的嗜好に基づく作品であり、展示に於いては、それら造形物が生み出す「作為の果ての無作為」を目論んでいた。
しかし、2011年3月の大震災とその後に起きた原子力発電所の事故を経験してからは、そういった制作方針や展示の在り方に少なからず疑問が生じた。それは「災害時において芸術に何が出来るか?」、「アーチストとして出来うる事は何か?」といった類いの疑問ではなく、選んだ訳ではなく、たまたま生まれ落ちたこの島国における、その「芸術」そのものの意味や成り立ちに対してであり、更にはそれに対峙する私個人の「おこない」とその「結果」についてである。
震災による実際の被害が大きかった地域(特に津波被害)に行って感じた事は、天災における無差別、無作為な破壊の前では、人は成す術もない、という頭ではよく解っているつもりになっている当たり前の事実/真実であった。また、その震災直後から具体化した、原子力発電所の停止と破損による放射能拡散の恐怖と、それを巡っての国家や関連企業の対応は、我々が漠然と知っていても見ない様にして来たこの国が抱える矛盾と闇を、そして我々の未来を、無視出来ない形で顕在化した。その圧倒的な「天災」が呼び起こした破壊力と、「人災」があぶり出した矛盾や狂気が織りなす現在の我々を取り巻く状況こそ、正に「作為」の果ての「無作為」~「無秩序」な状態に他ならず(実はそれらは今に始まった事ではないのだが。)、その状況が露呈した状況下で敢えて創作活動を行う事について、疑問が生じる事や活動が停滞~停止する事態に陥るのはむしろ自然な事の様にも思えた。しかし、少なくとも私個人は音なり具体的な造形物なりを生み出し、それを人前に晒す事でしか社会参加の方法を持ち合わせていないし、それらの活動の停滞~停止が行き着く先は「死」を意味する。(これは大袈裟でも何でも無い、紛れも無い事実である。)私にはナイーヴになっている時間も状況も無かった。具体的な造形物の展示~インスタレーションは制作にそれなりの時間を要するが、幸いにも私はOPTRONを使ったサウンド・パフォーマンスという手段があった為、震災後も比較的早くから(震災後1週間後)活動を再開した。また、偶然にも音源制作の依頼を以前から受けていた事もあり、音~音楽による作品制作とライヴ・パフォーマンスは2011年中はむしろ活性化した。
その合間に幾つかのグループ展示には参加したが、2011年中は個展は行わず、この文章を書いている2012年の今現在まで、結果的には個展は行っていない。たまたま今迄、上手い機会に恵まれなかった事もあるが、何より私自身の中で様々な事柄を整理する必要があった事が一番の要因だったと思う。個展に向き合う「心積もり」が出来たのは2011年の年末から本年の初頭である。しかし「心積もり」といっても、目に見える形で何か判りやすい大きな変化が生まれた訳ではなく、結局は今迄のアプローチを深化させるという事であり、制作される作品は以前にも増して目と耳に悪く、また、個人的嗜好性を増長させた形体で表現される事となる。
今回の「V.R.SPECTER」は、直訳すれば「可視の亡霊」、というタイトルであり、更に「視る音、聴く光」、(Visible Sound, Audible light vision)というサブ・タイトルをつけた。
これはつまり、見えないはずの、聞こえないはずのモノやコトを見聞きする為の、「視覚芸術からの「音」、あるいは「音楽」へのアプローチ」であり、同時に「音を視覚的なアプローチから解釈してみる」試みである。ここで発生し鳴らされる音の選別や具体物の形体の決定は、先にも書いた通り、相も変わらず作者である私の個人的な嗜好性によるものであり、個々の展示物やそこで聴く事の出来る音には私なりの個人的なテーマや意図が存在するが、ここでは敢えて言及しない。
展示空間に展開する世界観は私の欲望や理想、そして至らなさを浮き彫りにするであろうがしかし、それは今日を生きるものとしてこの混迷し、希望の見えない状況から再び紡ぐ「REAL VIRTUALITY / 現実の仮想性」であり、私なりの祈りと再生の儀式でもある。
伊東篤宏 2012年10月
「音を視る」「光を聴く」
宮津大輔(企画協力)
私達は、東日本大震災とその後の原子力発電所事故を体験して以降、この世に「あり得ない」ことなどあり得ないことを思い知った。 激しい揺れが治まった後、不鮮明なワンセグの小さな画面で見た大津波の映像は、生涯私の脳裏から消えることはないであろう。黒い山脈のような水の塊が海辺の街を呑み込み、全てを押し流していく光景を見ている時、私の耳には確かに、実際には聞こえるはずのない「ゴーッ」という音が聞こえていた。それは私にとって、音を視るという強烈な体験であった。 それから数日後、私の住んでいる街を含め東北南部及び関東圏は、福島の原子力発電所事故により飛来した放射線物質に汚染されることになる。放射線物質の恐ろしさは、何より私達の視覚ではその存在を捉えられないことにある。 伊東篤宏は1990年代後半より、蛍光灯発光に伴う放電の増幅・出力を利用した楽器※1「オプトロン」を用いたパフォーマンスを中心に、ヴィジュアル・アートの視点から、サウンドによる表現の可能性を追求し続けている。 伊東のライブ・パフォーマンスで爆音の洪水に身を任せていると、全ての音が消滅したように感じる瞬間と出会う。音と音の谷間が実在していたのか、或いは単なる感覚的なものに過ぎないのか確かめようもないが、その時の私は青白い閃光によってのみ、音の存在を体感・認識していたことになる。蛍光灯とは、そもそも放電で発生する紫外線を蛍光体に当て、可視光線に変換する光源である。その出自からも、人間の視覚、聴覚では捉えられない「もの」や「こと」を可視化、可聴化※2するためのツールであることこそ、オプトロンに宿命づけられた役割であるとは言えまいか。 イラク戦争や東日本大震災の惨状は、テレビ・ニュースやYoutubeにアップされた動画により、いとも容易く世界中に配信・共有されることで、特撮映画やテレビ・ゲームを見ているような錯覚を生み出した。私達の便利な都市生活はサウンドとイメージによるノイズの中に在り、ともすれば視覚、聴覚をはじめとする感覚の鈍化・退化という犠牲の上に成り立っている。社会、経済活動が加速度的にグローバル化する現代を生きる私達にとって、重要なことは世界各地で起こる様々な事象に対する当事者意識の涵養である。 「音を視る」「光を聴く」とは、時間を知覚し、空間を把握することにより、現実世界の出来事をいたずらに仮想化することなく、認識・理解することに他ならない。伊東の作品とパフォーマンスに共通するのは、私達の感覚を今一度鋭敏に研ぎ澄まし、世界に対する当事者意識を覚醒させる点にある。そして、それは私達の心、或いは社会システムの中に潜む「可視の亡霊」と対峙することでもある。
※1:オプトロンの機能を端的に紹介するために、ここでは便宜的に楽器と表現した。
※2:聴覚表示の一形態で、非言語音声によって情報を伝えることを意味する。
電離放射線の検知を音声に変え、放射線量という不可視なデータを測定するガイガーカウンターは、同技術による応用成功例の一つである。
会期:2012 年 12 月 1 日(土) - 16 日(日) 12:00 - 20:00 *月曜休廊
オープニングレセプション:12 月 1 日(土) 18:00-20:00
会場:XYZ collective (SNOW Contemporary) /東京都世田谷区弦巻 2-30-20 1F
主催:SNOW Contemporary
企画協力:宮津大輔
SNOW Contemporary では 2012 年 12 月 1 日(土)から 16 日(日)まで、美術家・オプトロンプレーヤー である伊東篤宏の個展「V.R. Specter」を開催いたします。
1965年生まれの伊東篤宏は、1992年に多摩美術大学大学院美術研究科を修了し、1990年代より蛍光灯を素材としたインスタレーションをはじめました。主な展覧会に「六本木クロッシング / New Visions Contemporary Japanese Art 2004」(2004/森美術館)、個展「V.R.」(2009/原美術館)、個展「Paint & Collage Works 2010」(2010/NADiff a/p/a/r/t)などがあります。また、98年からはインスタレーション作品と同素材である蛍光灯を使用した 自作”音具”「オプトロン」によるサウンド・パフォーマンスを開始します。様々なジャンルのパフォーマーたちと共演・コラボレーションをおこなうと同時に、「シンガ ポール アーツ フェスティバル 2010」(2010/Supperclub シンガポール)や「NJP SUMMER FESTIVAL 21ROOMS」(2011/Nam June Paik Art Center 韓国)など、世界各国から数多くの招聘を受けています。
伊東篤宏の表現活動において、欠かす事のできないマテリアルとして「蛍光灯」があります。伊東は1990年代より、蛍光灯それ自体を中心にすえ作品を制作してきました。初期は、ライトボックス型パネルなどを使った平面作品でしたが、徐々に外枠や構造体を省くことでミニマル化し、98年には蛍光灯そのものを素材とした音具「オプトロン」を制作するに至ります。「オプトロン」を使ったパフォーマンに取り組むようになったのも、この頃です。蛍光灯が発光するときに放電されるノイズを増幅/コントロールすることで放出される音と光の激しい明滅で構成されるパフォーマンスは、観る者の視覚と聴覚を強烈に刺激します。視覚に訴える初期のインスタレーション作品から、「オプトロン」が制作されたことにより、視覚行為に加え聴覚という新たな感覚を喚起させることとなったのです。蛍光灯というきわめて日常的なモノが、通電することで発光し電磁ノイズを放出する、場合によっては凶器にもなりうる「オプトロン」という音具へと転換されることへの違和感とダイナミズム、そして我々の内にある未知の感覚が広がることで得られる開放感と刺激は、伊東作品だけがもつ特質です。
この度の個展では、光と音で構成された大型インスタレーションと数点の立体作品をメインに展示します。伊東は本展のタイトルを「V.R. Specter」(可視の亡霊)、サブタイトルを「視る音、聴く光」とし、音に対する視覚的そして光に対する聴覚的なアプローチを同時に展開する予定です。我々は普段、主に視聴覚に頼ることでリアリティを把握しています。近代以降は、写真やラジオ、電話、テレビ、インターネットなど、様々なメディアの登場により、視聴覚への依存度はより強くなってきているのではないでしょうか。本展タイトルである「V.R. Specter」(可視の亡霊)は、「可視」と、本来は不可視な存在である「亡霊」の組み合わせが矛盾しているように受け取れます。しかしながら伊東は本展を通じ、「視えないはずの、聴こえないはずのモノやコトを見聞きする」という、現代では理解が難しくなりつつある感覚を皆様にお見せいたします。 伊東篤宏の作品は、日常生活で鈍化した視聴覚を刺激することで、逆にその存在を我々に意識させます。この体験が、ご自身の日常を考えるきっかけの一つとなれば幸いです。皆様には是非実際に本展覧会を体感していただきたく、ここにご案内申し上げます。
「V.R.SPECTER」展に向けて」 - アーティスト・ステートメント
私は以前より「視覚、聴覚の変容」、「視る、聴く快感」を基本原則とした、視覚芸術からの「音」、あるいは「音楽」へのアプローチを行って来た。
それらは、意図的に造られた(造形された)作品(そこには蛍光灯音具「OPTRON」を含む)から生まれる「音」を含んだ展示であり、特定の意味や思想に拠らない個人的嗜好に基づく作品であり、展示に於いては、それら造形物が生み出す「作為の果ての無作為」を目論んでいた。
しかし、2011年3月の大震災とその後に起きた原子力発電所の事故を経験してからは、そういった制作方針や展示の在り方に少なからず疑問が生じた。それは「災害時において芸術に何が出来るか?」、「アーチストとして出来うる事は何か?」といった類いの疑問ではなく、選んだ訳ではなく、たまたま生まれ落ちたこの島国における、その「芸術」そのものの意味や成り立ちに対してであり、更にはそれに対峙する私個人の「おこない」とその「結果」についてである。
震災による実際の被害が大きかった地域(特に津波被害)に行って感じた事は、天災における無差別、無作為な破壊の前では、人は成す術もない、という頭ではよく解っているつもりになっている当たり前の事実/真実であった。また、その震災直後から具体化した、原子力発電所の停止と破損による放射能拡散の恐怖と、それを巡っての国家や関連企業の対応は、我々が漠然と知っていても見ない様にして来たこの国が抱える矛盾と闇を、そして我々の未来を、無視出来ない形で顕在化した。その圧倒的な「天災」が呼び起こした破壊力と、「人災」があぶり出した矛盾や狂気が織りなす現在の我々を取り巻く状況こそ、正に「作為」の果ての「無作為」~「無秩序」な状態に他ならず(実はそれらは今に始まった事ではないのだが。)、その状況が露呈した状況下で敢えて創作活動を行う事について、疑問が生じる事や活動が停滞~停止する事態に陥るのはむしろ自然な事の様にも思えた。しかし、少なくとも私個人は音なり具体的な造形物なりを生み出し、それを人前に晒す事でしか社会参加の方法を持ち合わせていないし、それらの活動の停滞~停止が行き着く先は「死」を意味する。(これは大袈裟でも何でも無い、紛れも無い事実である。)私にはナイーヴになっている時間も状況も無かった。具体的な造形物の展示~インスタレーションは制作にそれなりの時間を要するが、幸いにも私はOPTRONを使ったサウンド・パフォーマンスという手段があった為、震災後も比較的早くから(震災後1週間後)活動を再開した。また、偶然にも音源制作の依頼を以前から受けていた事もあり、音~音楽による作品制作とライヴ・パフォーマンスは2011年中はむしろ活性化した。
その合間に幾つかのグループ展示には参加したが、2011年中は個展は行わず、この文章を書いている2012年の今現在まで、結果的には個展は行っていない。たまたま今迄、上手い機会に恵まれなかった事もあるが、何より私自身の中で様々な事柄を整理する必要があった事が一番の要因だったと思う。個展に向き合う「心積もり」が出来たのは2011年の年末から本年の初頭である。しかし「心積もり」といっても、目に見える形で何か判りやすい大きな変化が生まれた訳ではなく、結局は今迄のアプローチを深化させるという事であり、制作される作品は以前にも増して目と耳に悪く、また、個人的嗜好性を増長させた形体で表現される事となる。
今回の「V.R.SPECTER」は、直訳すれば「可視の亡霊」、というタイトルであり、更に「視る音、聴く光」、(Visible Sound, Audible light vision)というサブ・タイトルをつけた。
これはつまり、見えないはずの、聞こえないはずのモノやコトを見聞きする為の、「視覚芸術からの「音」、あるいは「音楽」へのアプローチ」であり、同時に「音を視覚的なアプローチから解釈してみる」試みである。ここで発生し鳴らされる音の選別や具体物の形体の決定は、先にも書いた通り、相も変わらず作者である私の個人的な嗜好性によるものであり、個々の展示物やそこで聴く事の出来る音には私なりの個人的なテーマや意図が存在するが、ここでは敢えて言及しない。
展示空間に展開する世界観は私の欲望や理想、そして至らなさを浮き彫りにするであろうがしかし、それは今日を生きるものとしてこの混迷し、希望の見えない状況から再び紡ぐ「REAL VIRTUALITY / 現実の仮想性」であり、私なりの祈りと再生の儀式でもある。
伊東篤宏 2012年10月
「音を視る」「光を聴く」
宮津大輔(企画協力)
私達は、東日本大震災とその後の原子力発電所事故を体験して以降、この世に「あり得ない」ことなどあり得ないことを思い知った。 激しい揺れが治まった後、不鮮明なワンセグの小さな画面で見た大津波の映像は、生涯私の脳裏から消えることはないであろう。黒い山脈のような水の塊が海辺の街を呑み込み、全てを押し流していく光景を見ている時、私の耳には確かに、実際には聞こえるはずのない「ゴーッ」という音が聞こえていた。それは私にとって、音を視るという強烈な体験であった。 それから数日後、私の住んでいる街を含め東北南部及び関東圏は、福島の原子力発電所事故により飛来した放射線物質に汚染されることになる。放射線物質の恐ろしさは、何より私達の視覚ではその存在を捉えられないことにある。 伊東篤宏は1990年代後半より、蛍光灯発光に伴う放電の増幅・出力を利用した楽器※1「オプトロン」を用いたパフォーマンスを中心に、ヴィジュアル・アートの視点から、サウンドによる表現の可能性を追求し続けている。 伊東のライブ・パフォーマンスで爆音の洪水に身を任せていると、全ての音が消滅したように感じる瞬間と出会う。音と音の谷間が実在していたのか、或いは単なる感覚的なものに過ぎないのか確かめようもないが、その時の私は青白い閃光によってのみ、音の存在を体感・認識していたことになる。蛍光灯とは、そもそも放電で発生する紫外線を蛍光体に当て、可視光線に変換する光源である。その出自からも、人間の視覚、聴覚では捉えられない「もの」や「こと」を可視化、可聴化※2するためのツールであることこそ、オプトロンに宿命づけられた役割であるとは言えまいか。 イラク戦争や東日本大震災の惨状は、テレビ・ニュースやYoutubeにアップされた動画により、いとも容易く世界中に配信・共有されることで、特撮映画やテレビ・ゲームを見ているような錯覚を生み出した。私達の便利な都市生活はサウンドとイメージによるノイズの中に在り、ともすれば視覚、聴覚をはじめとする感覚の鈍化・退化という犠牲の上に成り立っている。社会、経済活動が加速度的にグローバル化する現代を生きる私達にとって、重要なことは世界各地で起こる様々な事象に対する当事者意識の涵養である。 「音を視る」「光を聴く」とは、時間を知覚し、空間を把握することにより、現実世界の出来事をいたずらに仮想化することなく、認識・理解することに他ならない。伊東の作品とパフォーマンスに共通するのは、私達の感覚を今一度鋭敏に研ぎ澄まし、世界に対する当事者意識を覚醒させる点にある。そして、それは私達の心、或いは社会システムの中に潜む「可視の亡霊」と対峙することでもある。
※1:オプトロンの機能を端的に紹介するために、ここでは便宜的に楽器と表現した。
※2:聴覚表示の一形態で、非言語音声によって情報を伝えることを意味する。
電離放射線の検知を音声に変え、放射線量という不可視なデータを測定するガイガーカウンターは、同技術による応用成功例の一つである。
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